大友家との和睦

冠位を貰う事に成功した後の天文6年、1537年に大内義隆は室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるましたが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれてしまい、領国経営に専念するためにこれを断念しました。大内義隆は色々と京好みな逸話が色々と残っていますので、この上洛断念は惜しいものであったのかもしれません。そしてここからじわじわと名が挙がっていく尼子家・・・後のフラグにも見える

さて少弐家と共に北九州の覇権をかけて戦っていた大友家。此方との戦いには重臣の陶輿房が赴いていたようですが、此方も少弐家との戦い同じく大内家が破れる事になります。そして義隆は此方には婚姻政策で和睦しようとします。

この婚姻政策は見事成功し、1538年に先ほど名が出た12代将軍・足利義晴の仲介で大友家と大内家の和睦が成功します。嘉隆はこの時、姉を大友義鑑に出しました。そしてこの姉から生まれた甥が、後の大友宗麟と大内義長となるのです・・・。

この二人が後に大友家と大内家を巻き込んで(というと語弊がありますが)色々やってしまう事を考えるとこの婚姻政策はどうだったのか、と思ってしまいますがともあれ少弐家を滅ぼして大友家とも和睦した大内家、次なる敵は尼子です。

この全てが後の毛利の躍進につながっているとかこわい

元就「なんのことやら」