さて前回任官を認められなかった大内義隆ですが、義隆はその後も任官を諦めてはいませんでした。
天文3年、1534年の4月の、義隆は2000貫文という大金を後奈良天皇即位式の費用として献金します。この返礼のというようにして4月のうちに義隆は従四位下に叙されています。
しかし大内義隆が欲しいのは太宰大弐の冠位です。
天文4年、1535年には、大内家は少弐氏の勢力を筑前から追い出すことにほぼ成功したとみられますが、これを受けて筑前支配の名分を強化するためにか、同天文4年12月22日に内裏の造営費の名目で100貫文を献金し、同時に大宰大弐就任を求めてました。天皇は12月27日にこれを一旦認めるます。が、翌28日に翻意。任官問題は棚上げになってしまいました。
結局、朝廷より翌天文5年5月(あるいは6月?)に正式に大宰大弐任官を認め、同時に即位礼の資金を準備したことを賞して剣を賜ることとして使者を下向させています。
どうやら潔癖すぎる後奈良天皇が気まぐれで一旦取り消したようで、この任官取消には大内義隆に特に非はなく、その後の朝廷との関係も問題なかったようです。因みになぜこんなに任官にこだわったかというと、少弐家を滅ぼす大義名分を欲しがった模様。要するに、
「少弐氏の官職は大宰少弐だから、大宰大弐の大内氏のほうが偉いんだよ!」
という感じのようなものですね。昔は冠位や大義名分が重要である事が伺えます。