嫡男死亡は御家壊滅フラグ・1

さて謀聖・尼子経久には三人の優秀な息子達がいた事は既に書いたと思います。その長男であり、経久の嫡男で花実兼備の将と謳われた尼子政久の死について、話していきたいと思います。

出雲の戦国大名・尼子経久の嫡男に生まれた尼子政久。母親は経久の正室であり「鬼吉川」こと吉川経基の娘。謀聖の子にして鬼吉川の孫として政久は戦国の世に生を受けました。

父と祖父の文武両道に通じた面を見事に受け継いだ政久は、武芸百般・詩歌管絃に優れ、特に横笛には定評があり、後土御門上皇に謁見した際にはその文武両道ぶりから「花実相応の大将」と称されました。花も実もある大将とはあの本多忠勝を褒める際にも使用されている言葉であり、武人にとってこの上ない称賛でしょう。実際父親である経久は子の政久にかなり期待していたと思われます。

そんな政久の命運が狂ってしまったのは、そして同時に尼子の命運が狂い始めたのは経久による南条宗勝討伐の戦がきっかけでした。政久は父の命に従って南条攻めとして伯耆国に進撃。その際に、居城の月山富田城を狙って磨石城主・桜井宗的が反旗を翻した為、7000の手勢と共に磨石城を攻める役目を父より任されたものの、その堅牢さに苦戦しました。