尼子家の降伏

さて山中鹿之助の奮戦などもありましたが、尼子方は兵糧攻めにより士気がだだ下がりになっていきます。対して冬になり毛利軍も兵糧が底をつき始めたところで尼子方の降伏を認める高札を立てたため、尼子方の籠城兵は集団で投降するようになりました。この時の降伏兵には尼子氏の譜代の家臣までもいたようです。

さて一方の尼子側では家臣の宇山久兼が私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れつつ、奮闘を続けていた。しかし宇山は尼子義久が讒言を信じて誅殺してしまいます。この事もまた、尼子方の降伏兵を増やし、士気を下げる結果となってしまったのです。

そして永禄9年11月21日。ついに尼子義久は降伏します。毛利側は義久ら尼子一族の生命を保証し、28日に城を出た義久らは安芸国に引き取られ幽閉されました。この和睦の交渉をしている間も逃亡兵が続出していたため、月山富田開城時の城兵は僅か300余名にしかならなかったとも言われています。この時他の熊野城などの残っていた尼子方の城も、尼子本拠地である月山富田城陥落後に開城しました。

此処に戦国の世、大名としての尼子家は滅びる事になりました。義久は勝久らの奮起時も答える事無く、耐え凌いで生きていく道を選びます。


2014年5月15日 尼子家の降伏 はコメントを受け付けていません。 新着