尼子攻めと負った心の傷

さて大内義隆の敵は目下尼子勢のみとなりました。当時尼子家は嫡男・政久を失って家中が揉めていた頃です。

さてまずは1540年、出雲の尼子晴久が安芸に侵攻してくると傘下の領主代表だった安芸の毛利元就に援軍を派遣し、大内家と毛利家は尼子家を退けました。翌年には武田信実を滅ぼして安芸の支配権を確立しました。この頃はまだ問題ではなかったのですが・・・・。

問題の1542年。この年、謀聖と謳われた尼子経久が逝去した事で、尼子家臣が大内家に離反してきました。嘉隆はこれを尼子家を滅ぼす絶好の機会と捉え、自ら出雲に遠征します。これが大内家の命運を分ける事となりました。

義隆は、弱体化した尼子家を倒す程度なら大内軍の主力を動員する必要はないと考えていました。そのため、安芸や石見の国人領主を中心とした連合軍を結成して出雲に侵攻しました。 だけれど尼子軍の新宮党の予想以上の抵抗と、長期にわたる派兵によって領主達の不満は募っており、ついには寝返りや逃亡が頻発。大内軍は総崩れとなって遠征は失敗に終わります。その上この時養嗣子として従軍していた大内晴持が事故死した事で、義隆は心に深い傷を負ったのかますます戦嫌いとなって、以後は戦場に出向くことはなくなったといいます。