我が子との争い

さて毛利元就の存在を危惧する尼子経久。聊かやり過ぎてしまった事もあり元就は尼子側から大内側へとなっていきます。そして次々と尼子側から大内側へと移り動いていく国人衆。尼子家は窮地に立たされてしまいます。そこに追い打ちをかけるように、後に塩治輿久の乱と呼ばれる戦がおこります。

尼子経久には花実兼備の将と謳われた嫡男・政久、祖父である鬼吉川の地を色濃く受け継いだ勇将次男・国久、そして三男に輿久という優秀な息子達がいました。今回のキーマンはこの三男・輿久です。長男次男はまたいずれ・・・。

この興久は経久が大内義興に従い上洛した際に大内家との仲を深めるために義興の偏諱を受け興久と名乗りました。そして二十を前にして塩治家を手中に収めるべく養子に出され、その後出雲一帯に大きな勢力を誇る塩冶当主となり、尼子家の勢力拡大に一役かった人物です。その後、輿久は塩治輿久と名乗ります。

輿久は隣国の大内やその麾下の勢力、独立した国人衆と相対しており、その財政的負担と折衝の為の辛苦は尼子一族の中でも大きな物でした。その為興久は経久と腹心の亀井秀綱に対し、自らの知行を増やすよう申し出るものの、秀綱により却下されます。

そうして腹に据えかねた輿久が興した戦こそ、塩治輿久の乱です。