犬山城調略の裏話1

さて、小牧・長久手の戦いが始まり、早速徳川家康・織田信雄側の犬山城が池田恒興によって落とされてしまいましたが、これをどうやって落としたかの逸話がありますのでご紹介しましょう。

後に小牧・長久手の戦いが始まった時の事です。

信雄方であるの犬山城主、中川定成は伊勢における羽柴秀長、蒲生氏郷らとの戦いで討死しており、犬山城には少数の守備兵だけが残っていた状態でした。これを大垣にいた池田恒興が知った時、彼は信雄側から秀吉側に寝返る時を決めたばかりの時でした。

「我々は秀吉方に従うことにしたが、未だ旗幟をはっきりと見せる事は出来ていない。早く尾張に攻め入り秀吉に味方した証拠を見せねばならないが、ここで犬山の城主が討たれ、残兵も少数だと言う。これは城に攻め入り、犬山を攻め取る手柄を立てるまたとない好機である!幸いにも俺は元亀の頃犬山を領していた。そうだ、日置才蔵をここに呼べ!」

日置才蔵は恒興が犬山領を納めていた頃、犬山城下の奉行を務めていた人物です。恒興は才蔵にある調略の命令を密かに下します。その名を受けた才蔵、早速ある場所へと向かいます。

さて、才蔵の向う場所は?そして恒興の調略とは…?

このように、戦は戦の始まる前から色々な考えが巡っているんですね。昔の人物は常に頭を巡らせていたのでしょう。


2014年3月7日 犬山城調略の裏話1 はコメントを受け付けていません。 新着