織田信孝の最期

さて、今回は賤ヶ岳の戦いのある意味発端、そして最終的に切腹に追い込まれた信長の三男・織田信孝のお話を少ししましょうか。

織田信孝・幼名三七丸。理由・三月七日に生まれたからちょっとそこ安直とか言わないの!

何にせよ信長の周りの人はちょっと独特なネーミングセンスに巻き込まれる運命にありますが、さて信孝に話を戻して。

信孝は信長の息子でありながら秀吉に織田家を良いようにされ、最終的に柴田勝家を巻き込む形で賤ヶ岳の乱をおこして秀吉に敗北。その後、切腹に追い込まれてしまいます。しかし実際に信孝が秀吉に対抗していなければどうなっていたのか。もしかしたら生きながらえる事は出来たかもしれないので、身の振り方は色々考える所があるのかもしれない人生だったのでしょうか。そんな彼ですが、辞世の句は此方。

「昔より主を討つ身の野間なればむくいを待てや羽柴筑前」

昔、同じ野間で源義朝が家臣に討たれたことをかけている句です。

さて先を急いだ事を言いますと、秀吉の築いた大阪城は家康によって落とされ、秀吉が築いた豊臣の天下は終わります。ですがこの日、奇しくも織田信孝の三十三回目の命日だったのです。それはむくいだったのかどうかは知りませんが、奇妙な縁を感じますね。

では次回は、滝川一益と織田四天王について触れてみましょうか。


2014年3月3日 織田信孝の最期 はコメントを受け付けていません。 新着