西の京

時の大内家の当主、大内政弘は応仁の乱には西軍側として参戦して、その武勇を西国の地に轟かせた武将と言った事は前回にも説明しましたね。しかし政弘はただの武力一辺倒の猛将と言うだけではなく、政治に明るく、文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築いた人物です。

日明貿易は博多商人と連携し、堺商人と組んだ細川氏と競合しつつ遣明船を派遣するなど内政にも力を入れており、また対朝貿易にも応仁の乱以降力を入れました。これらで得た莫大な利益は、軍費などに充てられたといいます。また、応仁の乱後は領国経営にも意を注ぎ、社会秩序の確立に努めました。軍事から内政、自国統治にまで力を入れていたのですね。

その一方で政弘は和歌・連歌を好み、家中にも勧奨したともあります。一条兼良、三条西実隆ら多くの歌人・連歌師と交流すし、当時荒廃していた京から公家、僧侶、雪舟などの芸術家を山口に招いて、文化の興隆に尽力しました。後に山口が西の京と呼ばれる由来はここからも来ています。そして文明12年には宗祇を招き、連歌会を行なっています。

しかし後の世で大内家が京好みが行き過ぎて衰退していく事も考えると、これらも決して良い影響では無かったとも見れますね・・・あくまで趣味であり、戦国大名を捨てて打ち込めば家が滅ぶのでしょうが・・・。


2014年5月18日 西の京 はコメントを受け付けていません。 新着